その10:ヒューストンのOFC会議中に行われたJDS社への資本参加合意会議

前回Bellcoreの審査にパスしたことに触れた。Bell系のシステム運営会社から、光ケーブルは小口ながら徐々に注文回数と量は増えつつあった。それに付随して、私の担当していた光工具、パッチコード等の注文も増え始めた。社員数は順調に増加、全社員が70名を超えるようになると一体感と活気が出て来た。社員の慰安を兼ね、ピクニック兼日本的運動会を開催した。家族連れ参加が多く、驚くほどの人数が参加し好評であった。

新人募集をした時に、南部で最も有名な大学「Georgia Tech」の学生2名が応募して来た。その一人は Jeff Miller、彼の父はBell研でBiconicコネクターを開発した一人、有名な Kelvin Miller氏であった。もう一人はJohn Chamberlin で二人ともストレートAなる成績優秀な学生であった。Jeffは私の部下に、Johnはケーブル部門に配属された。私が帰国した後、彼らは数年で辞め、Jeff は父親の設立したMicron Optics社を継ぎ、Johnは自社を設立し成功したと聞いた。

会社が大きくなると良いことばかりでない。部下のブラジル移民で中心的現場技術者が組合を作る動きをしているからと、人事担当者からの指示で、私が彼を解雇しなければならなかった。米国では「採用と解雇」、「権限と責任」は上司の仕事であった。

1988年に本社技術部長であった松原さんが副社長として着任した。その頃、私は滞米生活5年が経過していた。仕事であれば米国内を独りで動き回れた。ただ日本語が変におかしくなり、話す時に直接的な言い方になっていた。帰国を考え荻原社長に相談した。帰る先のポストと代わりの人物がいなければ直ぐには決まらないことは承知していた。

1989年2月、テキサス州ヒューストンでOFCが開催された。大久保光研究所長からJDS Optics社の創業者4名、古河側は大久保所長、荻原社長、と私を含めた3名が会議をするのでホテルの会議室を予約するように指示が来た。古河電工がJDS Optics社に50%出資の合意された会議であった。

1990年初めに、私の後任が通信技術部の林君に決まったと知らされた。その頃、ロンドンでPON(Passive Optics Network)の会議が予定され、参加の要請があった。帰国前の慰安の意味があったのか家族4人連れが許可された。当時、古河電工のロンドン支店長は小倉純二さんであった。以前、ロンドン出張時には何度かお世話になっていた。

彼は大のサッカー好きで、古河サッカー部の奥寺氏をドイツプロリーグ仲介した。後にJFAに転職後、日韓ワールドカップの開催をまとめ、日本代表「なでしこ」が女性世界一に輝いた時の日本サッカー協会12代会長になった。彼の部下には谷口君がいた。彼は海外事業部の電力グループ所属で旧知の友人であった。この旅行ではお二人に家族がお世話になった。

話を戻そう、このPONの国際会議はNTT横須賀通信研究所三木所長、米国BellCoreのDr. Ching Lon Lin、英国British Telcomの方3名とで共同主催された。古河電工から三木所長に事前の挨拶する旨、ホテル名と電話番号を知らせて来た。連絡を取ると「座長が足りない、Passive Componentsのセッション座長やってくれないか」と突然に言われた。

日本でも経験ないのに、ロンドンの国際会議で座長とはと焦った。セッション直前に発表者全員と面談を終え、何とか会議をまとめた。日本からフジクラの山内とNTTの角田両博士、仏、伊、独の各研究者が論文発表をした。ロンドンから戻ると私の次のポストは千葉光技術研究所受動素子開発室長に決まったと知らされた。

その11:滞米6年後、帰国で味わった逆カルチャーショックへ