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その2:大阪支店から本社海外営業本部に転籍した経緯
前回、古河電工大阪支店での競馬場で光ファイバシステムの導入に触れた話を紹介した。実は当時、今で言う上司のパワハラを受け、会社に嫌気がさし転職活動を始めていた。支店長が察知し、全社で取り組む「海外要員育成プログラム」の養成員募集が始まるので参加を勧めてきた。
毎月1週間(月~金)渋谷にあるECC英会話学校で米国人講師から交渉に必要な海外ビジネススキルの特訓を1年間受けた。無事修了書を受け取った1978年3月、本社海外事業部1部通信営業課の課長大平裕さんより直接電話があった。内容はこれから「“光ファイバー”なるものを海外で販売展開することになる。
技術が理解できる営業員が必要で、来ないか」との誘いであった。私の転職希望が人事に知られており、千葉、横浜、平塚のそれぞれの研究所より研究職のオファーがあったが、大平さんの言う、海外展開の仕事ができるとの言葉で受諾の返事をした。数ヶ月後、丸の内にある本社ビル3階に転勤となった。当時課長の大平さんは大平総理大臣の次男であったが、御長男の方が亡くなっており、実質の長男であった。
私のように技術系で入社、国内支店の1,2年の営業経験しか無い若造に、大平さんはじめ事業部の諸先輩は初めて学ぶ、外国要人の取り扱い、商社接待対応、電線各社との海外案件の分業方法等々を懇切丁寧に指導してくれた。1978年当時、主流は通信メタルケーブルの輸出がほとんどで使われる銅の価格/LME(London Metal Exchange)で決まることを学んだ。
ある時入札したケーブルの銅のHedgeを忘れ企画部から大目玉を食らった。当時、古河電工1社で日本国内の必要とする銅量約10%を動かしていることも知った。仕事は通信用ケーブル輸出と海外での通信システム構築Projectが殆どで、中東(ヨルダン、クエート、イラク)、東南アジア(フィリピン、タイ、マレーシア、インドネシア)に大規模な通信網建設案件を抱えていた。
そのようなわけで初めから華々しく光ファイバーの輸出などの話はなかった。また、光ファイバーの引き合い案件は商社では“繊維部”が扱っていた。大手商社といえども光通信伝送技術を理解している人は殆どいなかった。当初内視鏡(胃カメラ等)に使う別物の引き合いが多かった。
欧州最大の直流送電技術で成り立つ“ABB”よりサイリスター制御用の引き合いに応じ、約10mの長さの石英バンドルファイバーを大量初受注した。ストックホルムの三井物産社員が技術に興味を持ってフォロー商談を成功させた。
フィンランドの通信省の実験用システムへのサンプルファイバーケーブルの入札あり、研究部の協力で受注した。ところが、NTT仕様で作られたファイバー芯線構造(タイトバッファー構造)は0~60℃での国内仕様しか満たせておらず、欧米が考えている-40~70℃の温度範囲の仕様は満足出来ず、使えないファイバーの悪例として論文に引用紹介された。初期光通信ファイバービジネスの苦い思い出であった。
その3:最初の海外赴任はNigeriaの1000km同軸幹線敷設工事Projectへ