その1:光通信とコンピュータのシステムを京都競馬場に導入した時代

1977年、私は大阪市内の堂島、サントリー本社の裏の古河電工ビル大阪支店に勤務していた。ある日馬券をも買った経験の無いない私が仕事で京都競馬場に行く事になった。

私は1971年に古河電工入社、横浜工場に配属、大型CATVシステム開発のチームに加わった。2年後古河グループ(古河電工、富士通、富士電機)を軸とし、東宝(映画)、旺文社(受験出版社)、東通(TV番組製作)が加わり日本で本格的ケーブルTV会社「日本CATV(株)」を立ち上げた。

しかし、通信と放送を融合させた本格的CATV事業は“郵政省を後ろ盾とするNHK/民放放送”と“通産省支配下のNTT/電話・通信”の利権と政争の板挟みに遭い、数年で立ちゆかなくなり解散した。私が大阪支店に配属になったのは残務整理の為であった。敗戦処理の仕事は面白く無かったが、埼玉生まれの私には関西文化の体験は新鮮であった。後に国外で仕事をすることになるが、関東と異なり本音で接する関西流交渉術は海外では大いに役立った。

余談だが、サントリーは鳥井さんが一代で築いた洋酒会社、一方、古河電工は古河財閥の中核会社で、異業種との関係か当時サントリーから懇意にしていただき、我々支店社員はサントリー社員同等の社員割引証を受取り、美味しい食事と酒の社員食堂を使わせていただいた。

話は戻るが1977年のある快晴の日、午後から京都競馬場に行くから準備しておけと突然に直属上司から言われた。今だから言えるが、某氏は無類の競馬好きであった。まさかの仕事中にと思ったが、まじめな話であった。この競馬場が富士通のFACOMコンピュータを導入し、競馬の着順、馬券の配当を瞬時に算出する当時最新のシステム導入をするとのことであった。

京都から大阪に至る淀川流域は夏には特に雷の多い地域である。メタル(銅)ケーブルでは落雷でシステムがダウンする懸念があり、レースの結果が出ず配当金が決まらなければ暴動に発展するかもと脅かされた。実用化が認知されていない時代に光ファイバーケーブルシステムの導入である。恥ずかしい話、その時点では私はマルチモードファイバーの原理をやっと理解した程度で、光ファイバーの価格が幾らでシステムがどの程度高度で高価なものは知らなかった。4芯50/125マルチモードファイバーケーブル、16Mb/s伝送の光伝送システムであったと思う。最もその時には私は現場の方々と光ケーブルを取りまわす“長さ”を計測したに過ぎない。

20年後、私は、精工技研(株)に転職した。この会社は光通信用研磨機とCDを作る金型を製造する事業を展開していた。ブルーレイDVDが世に出る前、金型の試作時、関係者は絶対に主流になると言っていた。光ファイバー通信システムがギャンブルの競馬場で導入され、ブルーレイDVDがAV(アダルトビデオ)で市場に普及した。ハイテクと言うが初期市場が要求するものは案外泥臭いのではと思った次第である。

その2:大阪支店から本社海外営業本部に転籍した経緯へ