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その11:滞米6年後、帰国で味わった逆カルチャーショック
帰国が決まった頃、シカゴから電話があり、日本に進出を計画している企業がある、転職する気があるかと聞かれた。「帰国が決まったので」と断ったが米国の会社から誘われたことは悪い気がしなかった。
海外生活が長いと“逆カルチャーショック”に見舞われると言われた。帰国後すぐさま直面した。千葉の市原市辰巳団地の社宅に入ったが、部屋が狭く子供が走り周りケガをしたと妻に文句を言われた。仕事は室長と言うがまさに雑用係、直接部下6名に、実験装置を動かす共通スタッフのスケジュール管理もあった。皆まじめであったが、フレックスタイムが導入されたばかりで、米国のスタッフのように早朝出社する者は皆無、コアタイムぎりぎり10時になると一斉に出社していた。
NTTから内田直也博士が光技術研究所長として着任した。私の日本語がおかしいと幾度も指摘された。タイの通信省から日本の最新光通信技術の紹介を要請され、NTTと古河電工が応じた。講演者として内田所長が行くことになり、カバン持ちとして私が同行した。
内田さんの元部下NTTの方が講演後の質疑応答時にこの方の英語が通じない、私が通訳した。 内田所長からは見直された。そうは言っても私の日本語はひどかった。前席に座る部下の太田君(現在古河電工執行役員)に配布する文章に目を通してもらってから関係者に配布することした。最も苦手は飲み会後の「カラオケ」で、流行歌も知らず小学校唱歌を歌ってごまかした。
悪い話ばかりではない、時はバブルの絶頂期、結婚後殆ど住まず渡米し、残した家の価格はほぼ倍になっていた。ローンを完済し四街道市に新築の一戸建を購入した。近くの幼稚園に2人の子供の入園を認めてもらった。片言の英語を話すので、先生方には珍しがられた。
園長からPTA会長を要請され、無理に入園を頼んだ手前もあり引き受けた。園長はPTAの役員は全員が女性、話をまとめるには男性でなければとの理由であった。余談だが帰宅時四街道駅の階段で若い女性から声を掛けられた。その時に私が、「申し分けありませんが私はあなたを知りません。何かのお間違えでは」と言って後にした。実はその女性は幼稚園の先生で、ひとしきりその幼稚園で話題になっていたことを妻から知らされた。
研究所での主な仕事は(1)NTTとの共同研究開発、そのため東海村原子力発電所隣接のNTT茨城通信研究所(:既に閉鎖)を月に2、3度、成果報告に通った。(2)光ケーブル接続部品関連の国際標準化仕様を決めるIECの委員に就任した。(3)海外からの来客が増え、スタンフォード大学から戻った柳川室長(後に横浜研究所所長)とで対応させられた。(4)資本参加したJDS社の製品の国内販路整備の仕事も特別に指名された。(5)その他、順番に回ってくる情報通信学会の論文の査読と講評、年度末の予算消化、翌年度の予算取り、人事査定等もした。
このようにして帰国後、上司や部下の周りの方々に助けられながら、2年が経過した。1992年4月に「光通信関連の部品事業」を立ち上げる話が決まり、丸の内本社に転勤した。事業部の名前は「ファイテル製品部」であった。NTTの光回線監視装置類を開発していた館上室長が長となり、彼のスタッフ渡邊君、私の部下である落合君と派遣の女性1名との計5名で本社部門を立ち上げた。国内開拓を館上部長、海外を私が主に担当した。100年以上も歴史を持つケーブル事業に対し、新製品、新顧客を開拓していくことは挑戦しがいはあったが、並大抵のことではなかった。
その12:光部品事業のFitel製品部の立ち上げとJDSの副社長職での出向決定へ