その12:光部品事業のFitel製品部の立ち上げとJDSの副社長職での出向決定

既に述べたが、私は1978年に大阪支店から本社、海外事業部に転籍、光通信ビジネスに関わる。1984年にNew York駐在員事務所勤務、1986年ジョージア州にて光ケーブル製造会社立ち上げに加わる。1990年光技術研究所勤務、1992年本社にて「Fitel 製品部」(:光通信機器&部品製造販売)を立ち上げることになった。この10数年間、光通信ネットワークは日米欧を軸に飛躍的に拡大した。

NTTは「Fiber Rich」を合い言葉に、全国にSMファイバーケーブルを張り巡らせる計画を強力に推進していた。さらに、各家庭に光ファイバーを引く「Fiber to the Home」プロジェクトが技術とコスト面で真剣に議論され始めていた。発足した「Fitel 製品部」は当初モタモタしていたが、NTT関連工事会社が主要顧客となり、ファイバーケーブル接続機器工具類の販売が着実に延びていた。

一方、私の担当の海外市場は欧州、東南アジア、南米に顧客を求めた。北米は資本参加したJDSに販売を任せた。シンガポールの華僑商社と提携でき、彼らの協力でマレーシア、インドネシア、タイ等に瞬く間に販売ルートを得た。イスラエル、フランス、台湾にも個別販売ルートができ、ブラジルでは古河電工100%出資のケーブル会社「FISA」のお陰で国営通信省の認定品として参入出来た。これに伴い私の海外出張は忙しくなった。

出張では機器の詳細が分かる若手技術者を同行、現地商社の案内で国営通信省関連の顧客訪問を行った。別件だが担当するJDS製品の国内で販売も増えて来た。その頃、ロスアンジェルス郊外にあった光レーザー部品製造販売のOCPという会社が経営に行き詰まり、古河電工に身売りの話があり、100%子会社として引き取った。

この会社は世界で初めてフロリダのDisney Worldに光ネットワークシステムを納入した実績を持つ。しかし、彼らの想定する市場は時期尚早であった。私はこの会社の社外取締役の1人になった。社内でも新製品も出て来た。1.48 μmポンプレーザー、さらにEDFA(Erドープファイバを使った光信号増幅器)で次期市場の最先端を行く製品であった。EDFAはNECの大月工場で開発された製品と受注を競った結果、NECの光システムに正式に採用さることにもなった。

古河電工は例年、年度末前に昇進査定が行われる。1994年、私は同期と比べると2年は遅れていた。その時も上司に結果を聞くと事業部長の判断は「NTTとの実績が無い」との理由で見送られたと告げられた。反論の余地は無い、社の主要収益源はNTTの仕事であり、当時の私は関与も実績もない。

一方、米国では時間は掛かったがLucentとの関係を構築した。始まったばかりではあるが、Fitel製品部を立ち上げ、海外販売ルートを築いた自負心もあった。その時、このまま古河電工で働き続けることに自分の未来はあるのかと疑問がよぎった。これに前後し、私には人生の転換期と言える重要な2つの出来事があった。

その1、JDSのトップより古河電工との意思疎通がうまくいかないからとの理由で出向者を小林に替えろと要請があり、上層部の方より既に決定したとの内示を伝えられた。その2、(株)精工技研、高橋社長(創業者)以下幹部2名が突然に私に会いに来た。彼らは2000年に上場を視野に入れている。役員待遇で迎えるから光通信部門長として来ないかと告げられた。思案し出した結論は、まずはJDSに出向し、区切りが着いた時点で帰国、精工技研に転職をと考えた。その旨精工技研には回答した。

1994年4月、JDSにVP & Board Memberとして正式な辞令が出た。

その13:JDS社躍進の背景へ