その17(あとがき):2003年~現在

1971~2003年間の私のサラリーマン生活をお読みいただき有難うございました。

2003年3月のある日、さしたる理由なく皇居内の公園に足を踏み入れた。平日で人影はまばらであった。突然突風が吹き、あたり一面が真っ白になるほど桜吹雪が舞った。初めて見る幻想的な光景があった。なぜか、この時に人生の後半への転機と思った。

同年5月会社を登記、社名は外国にも通用する(有)ブライト コンサルティングと命名した。既にコンサルタント会社を立ち上げた(株)ケイワンの笠原一郎社長、(株)テックウェーブの小檜山光信社長の助言をいただき、体裁を整えた。近くのマンションの1室を購入して事務所とし、関係者に挨拶状を送った。直ぐに、NTT厚木研究所の長瀬博士からMUコネクタの海外での普及が遅れている理由の調査依頼があった。笠原社長経由で日本航空電子(株)を紹介していただき、海外市場開拓の契約を得た。以来国内、米国、カナダ、中国、欧州の30数社と契約書を交わし、各国、各社、各様の仕事をした。

2006年のある日JDSのJ. Straus会長よりメールが届いた。趣旨はオタワ総合病院にJDSに関係したOB有志で基金を集め「ICU設備を備えた緊急病棟」を寄付しようとの提案であった。どの程度の金額を私に期待するのか恐る恐る聞いた。”One Quarter Million”と言ってきた。約2500万円を送金、国外からの寄付として喜んでくれた。約37憶円の寄付金が集められ、更に連邦政府との補助金を併せ合計約70億円の建設基金の準備が出来た。施設は2年後に完成、北米でも有数の医療設備が整えられた緊急病棟として地元新聞に大きく取り上げられ、その記事を送ってくれた。

私は40代の初め、米国の病院で「糖尿病」を宣告された。健康には気を付けて来たはずであるが、忙しくなるとその注意を怠る。自社を設立してから時間に余裕が出来た。近くのスポーツジムに申し込み、簡単な30分の「初級エアロビック」なるものに参加した。直ぐに息が上がり、同年配の奥様方より明らかに体力は劣った。ジムだけではもの足りなくなり、富士登山ツアーに参加した。頂上付近で気持ちの悪くなる高山病を初体験した。以来、体が動く内にと、ブータンの山を手始めとして、カムチャッカ半島の山、キリマンジャロ、スイスアルプス、ニュージーランド南島、南米パタゴニア等々年に1、2度のペースで海外の登山ツアーに参加してきた。お陰で登山でしか知りえない世界と友人も多数できた。

私の就職時期になぜか有線か、無線で迷った。結果有線を選んだ。そしてタイミング良く通信業界では1970代の初めにアナログからデジタル、併せて電気通信から光通信の実用化の研究が始まっていた。いつの間にか自分自身がその技術革新の中で北米を主体とした通信革命のビジネスにかかわる幸運を得た。

昨夜、TOKYO Olympic 2020 が終了した。COVID-19と呼ばれるコロナ禍で開催は賛否両論があり、終わった今も結論が出る迄時間を要すると思う。しかし、私としては状況を精査し、「やれる機会があるならやる」と言うのが仕事の信条でこのOlympicはやってよかったと思う。

元々文章を書くことの苦手な私が、自分の仕事体験を書くと言う無謀な試みに、JPC運営員皆様の支援を得て、私の「光の履歴」を書かせてありがとうございました。今後、JPCと関わる日本の光産業界が健全に継続的発展することを願っております。

小林 孝市