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その3:最初の海外赴任はNigeriaの1000km同軸幹線敷設工事Project
前回、1978年古河電工大阪支店から本社丸の内の海外営業本部第一部(通信営業)に転籍したことを述べた。海外との取引には国内と異なり取引ルールが色々あり、特に欧米のみならず東南アジア、中東、アフリカ等との輸出入等に複雑な政治背景があり、新しい知識を学ばねばならなかった。
特に当時は中東諸国との取引には「イスラエルボイコット条項」とソビエトを中心とした共産主義諸国との取引には「COCOM」の規制があり悩ませられた。さらに、いずれの国への輸出にも、軍事に転用される恐れのある光ファイバー、接続工具等は通産省の認可を取るために管轄の役所にどのようなものか説明に出向く必要があった。今なら笑い話になるかも知れないが、当時マルチモードファイバはOKでシングルモードはダメと言われた時期もあった。
ところで、丸の内に転籍後約半年、西アフリカ、ナイジェリアに赴任辞令がでた。約1,000 km同軸幹線工事(古河、富士通、日商岩井の共同Project)に当時の首都ラゴスへの現地事務長としての赴任であった。現地の治安が悪い上に、風土病の破傷風、コレラ、赤痢、マラリア、黄熱病、肝炎等があり、予防接種を1度に打つことが出来ず3ヶ月掛かった。
ここでの仕事は危険な上、困難な事は多くあったが、赴任1年目にして10年掛かっていた工事が完成した。当時、特許庁長官から古河に天下った片山さんが海外事業本部長として大統領主催の電話開通式に参加していただいた。後に告げられたがこのプロジェクトは数十億円の利益を得たとのことであった。片山本部長に帰国報告をした際に、社用車で通産省時代に贔屓にしていた築地の料亭でねぎらってくれた。
私は1978~1979年の丸2年の滞在であったが、1970年当初敷設したケーブルがアフリカ特有の地を這うような雷でケーブル事故が頻繁に発生、対応に追われたとのこと。ある方はこの対策で論文を発表し博士号を取ったとの逸話もある。遙か離れた西アフリカの長期難工事に関係した方々の完成の朗報はひとしおであったと思う。
1979年12月にパンナム航空西回り路線でNew Yorkに寄り、古河が当時開設したばかりの5番街に面したRockefeller27階にある駐在員事務所を訪問した。その時には4年後に駐在員として赴任するとは想像してなかった。真夏のラゴスからで真冬のNYは本当に寒かった。
1980年正月明けから丸の内本社に出社した。2年前と状況が一変し、光と関係する案件が異常に増えていた。ただ、光通信ビジネスと直結した話は少なく話題が先行していた。一方、1985年のNTT民営化を前にNTTを中心にケーブル3社:古河電工、住友電工、フジクラ、伝送機器:NEC、富士通, 測定器:安藤電気、アンリツの計7社が所謂「護送船団」を形成し、国内の衆知を結集して光ファイバー通信システム技術開発を進めていた。鍵はシングルモードファイバーの量産化技術と、高速伝送機器の実用化が最重点技術の確立であった。国内がまず先、それから海外の順であった。
その4:光通信ファイバービジネスの勃興期とJDS創業者との出会いへ