その4:光通信ファイバービジネスの勃興期とJDS創業者との出会い

前回ナイジェリアのプロジェクトに参加、無事帰国したことを述べた。わずか2年間であったが、赴任中高熱を伴うマラリアに掛かり、更にストレスで胃潰瘍になり、又奥歯4本に虫歯が発生、治療のすべなく帰国後、ここの歯はブリッジになった。仕事自体はやりがいがあった。ただし安全でかつ安定した環境下で仕事が出来ることを身にしみて大切と思った。

本社に戻ってからの1980~1984年の間は、光通信そのものとは関係ない種々雑多な光と名の付く引き合いが多かった。その関係か大手商社は繊維部が扱っていた。そのような時、モリテックス社の社長森戸祐幸さんを紹介された。総合商社丸紅から独立、今で言うVenture企業の草分けである。私の第一印象は商社タイプの方とは全く異なり、気力と覇気を発散している人と思った。当時、私は森戸さんとは今日迄長いお付き合いさせていただけるとは思っていなかった。そして、古河電工の光応用製品開発責任者の折茂課長と3人で欧州旅行の話がトントン拍子に進み、Stockholmの展示会、Paris郊外のFort社を訪問した。Fort社訪問の夜、近くの古城の中にある中世風レストランに招待された。私が初めて本格的フランス料理を食べた時であった。この旅行で国内外の光市場動向を知る重要さを学んだ。また展示会では内視鏡を手掛ける町田製作所、多成分ガラス応用製品を開発する住田光学硝子製造所(現:住田光学ガラス)等国内で光の別事業を展開する会社を知った。

当時私の所属していた籍は海外事業本部情報通信課、課長が大平裕さんであった。この方のお父様が大平総理大臣である。1980年6月の蒸し暑いさなか、選挙中に倒れ、急死した。そのニュースを聞いた時、古河総合ビル3階大部屋に人数少なく、我々の課では大平課長と私だけが机に向かっていた。後日社内関係者と大平総理私邸の葬式に参加した。それから約半月大平課長は香川の選挙活動に行くと言って帰らなかった。

1981年の春、古河電工情報通信事業部で光ビジネスの指揮を執っていたのは大久保勝彦氏であった。大久保氏は東大工学部卒、入社後Stanford大学で博士号取得したエリートである。因みに、元NTT研究所でVAD法確立に寄与した伊澤達夫博士は、彼と大学の同級生であった。彼からカナダのNorthern Telecomの2人が来日するので、浦安の自宅に案内するように指示を受けた。その一人はMr. Tom Hope 若い営業担当、Manitoba Project向け光ケーブルが作れず古河製品を使う話が進んでいた。しかし、Corning社の特許が存在し、その回避策を打ち合わせに来たのである。所でもう一人、Dr. Jozef Straus、立派な口ひげを携え、物静かな男であった。何をしているのか問うとレーザーを開発していると言った。この男が1年後、JDSを創業する4人の一人、私より1歳年上であった。新宿のホテルで開催されたミニ学会に参加の為に来日、言わばTomの付属品のように帯同した迄であった。今思えば私とカナダの縁はこの時始まったのである。

その5:初期の光ファイバー需要は米軍が検討する武器への応用へ