その6:1980年以降、各国で実用的ファイバー通信システム導入が始まる

前回、Corning社の特許で外国には輸出できないと説明しましたが、修正いたします。Corning特許が成立していない国には輸出できます。

1980年代の初めスエーデンのSievert社(後のEricson Cable社)よりマルチモード光ファイバの引き合いあり、受注、出荷ができた。ただし、製品が完成した時点でもめた。共通の測定方法が確立していなかったからである。両社のファイバ研究者がStockholm と東京間を往来し、何とか測定結果に合意が得られ納入された。

1980~1984年当時の私の仕事は営業というよりかマーケッテングの仕事が多かった。各国各地の顧客を探し、具体的引き合いを得ることであった。顧客も各国の通信省絡み、通信関連大手企業、商社経由の話等であった。協力商社の光通信ファイバへの理解も必要であった。会社は九大文学部卒業の部下と女性庶務役を付けてくれた。彼らにも光ファイバ通信の知識は必要であった。

当時、国内の光ファイバ通信技術開発はNTT研究所を中心に電線3社、機器2社(NECと富士通)、測定器(安藤電気、アンリツ)であった。電線3社には、住友電工に中原恒雄博士、フジクラに稲田浩一博士、古河電工に村田浩博士(理事&技師長)がおり、業界のリーダー(広告塔?)的存在であった。私は60代の村田博士に帯同して、タイ、マレーシア、インド、パキスタン等の通信省を周り、光ファイバ通信の可能性を語るPresentationを手伝った。

各国とも30~50名の関係者が熱心に聴講し、我々は歓待を受けた。シンガポール、インドネシアの展示会にも駆り出され、ブースの設定、光ファイバ関連製品説明、融着接続器のデモ等を行った。当時の融着接続器は重く、頻繁に故障した。

パキスタンの首都Islamabadに出張中に、本社からインドNew Delhiの通信省に寄り、光ファイバケーブルの注文が出る為に既に根回ししてある、現地代理店と協力して注文書を受け取る迄帰国するなとの指令を受け取った。高級タジマハールホテルで待機、注文書は2週間後にでて無事帰国できた。

今思うと紙面に到底書き切れないほど北米、欧州、東南アジア等各地に出張した。ただし、忙しいなりにも楽しい事もあった。欧州に出張時、チェックインする際、ビジネスクラスが満席なので1stクラスへのUp-Gradeを告げられた。当時出張先の変更が頻繁にありビジネスクラスがあたり前であった。インドではAgentが、車でAgraにある世界遺産「Taj Mahal」を案内してくれた。また、夜にはターバンを巻いた男達が踊るダンスホールにも案内され異次元の世界をみた。シンガポールでは現地測量の目的で1週間滞在、富士通の塩田所長に各種多様の料理を紹介していただいた。パキスタンの古都Lahoreで会食に招待された。初体験の「羊の目玉と脳みそ」料理が出て腰が引けた。

1.3μm帯の波長を使うマルチモードファイバシステムの引き合いが出始めていた。オーストラリアの電力庁からマルチモ―ド4芯ファイバケーブルを受注、納入した。シンガポールで本土とSentosa島間の光通信システムの入札では富士通と応札したが、NEC/住友電グループに敗れた。アフリカ大陸初めてのケニアの光通信システム入札は富士通と受注した。ある日の日経朝刊に衝撃的ニュースが載った。米国New York – Washington D.C 間での光回線システム入札があり、一旦は富士通に決まったが、家の重要な通信回線路を外国企業に任せられないとAT&Tに翻ったのである。

その7:1984年日米貿易戦争のさ中、New York 駐在員事務所に赴任へ