その7:1984年日米貿易戦争のさ中、New York 駐在員事務所に赴任

前回、米国North Corridor 光回線入札で富士通の受注がAT&Tに翻った事件に触れた。この時代、日本からの輸入車がデトロイトで労働者にボコボコにされた。東芝機械が設計した船のスクリューがソ連に輸出され、ココム違反事件として日米間の政治問題になった。この余波で米軍標準装備品に選定予定されていた東芝Lap-Topの納入がキャンセルされた。更には国内大手不動産会社がマンハッタンのビルを購入し始めていた。日本の経済が大躍進をしている間、米国には日本脅威論と反日感情が起こり、大きな日米貿易摩擦問題となりつつあった。

私事であるが、結婚が遅れていた私は1984年4月29日に式を挙げるために、同年2月に中古の2階建て戸建を購入、新婚生活を準備していた。ところが、3月31日突然に海外事業部員の私は、情報通信事業本部長の松本常務に呼ばれ、New York事務所勤務を告げられた。米国で働くには労働就業ビザ「H-1」取得が必要で、米国大使館に書類提出後、約半年を要した。その間結婚式をあげ、新婚旅行は我々2人で計画し欧州大陸を電車で回った。

赴任前の8月に渡米し、マンハッタンに通勤できる場所(Westchester County)にオーナー夫妻が1階に住むTwo Family Houseの2階を予約した。「駅まで歩ける距離の家を」と不動産屋に言うと珍しい条件と言われた。ビザが下りたのは10月初めであった。家のオーナーはイタリア人移民で米国生活が初めての我々に親身に生活アドバイスをしてくれた。通勤は近いHarrison駅まで徒歩10分、電車はマンハッタン中央に位置する「Grand Central Terminal St.」まで約40分、NY事務所のある5番街に接したRockefeller Centerビルまで約10分、片道約1時間を要した。事務所は17階にあった。余談だがこのビルの1階にはRadio City Music Hallという有名な劇場があり、ここで私は始めてミュージカルを観た。

事務所には私を含め、日本から4名、米人の秘書1名計5名であった。私の本来の仕事は光ファイバ通信関連のビジネスを創出する事だが、とにかく雑務に忙しかった。訪米する要人のホテル予約、面談のアポ取り、食事の準備、時には飛行場まで出迎えに来いというのもあった。東大の大越先生のお嬢様が現地の大学に留学するのでお手伝し、後日丁寧な礼状をいただいた。1984年10月はBell研究所からBellcore(後のTelcordia)が実質分離独立した時で、挨拶に伺うと、人員移動の最中であった。

前回「その6」で村田技師長に触れた。彼はBell研究所およびAT&Tの多くの方と懇意にしており、私を関係者に引き合わせてくれた。特に、Bell研で光ファイバMCVD製造法を確立した Dr. John Machesney、AT&Tの市場戦略を決める立場の日系2世西川信吾氏は古河電工の米国戦略に多大な影響を与えた方々であった。在米中、我々は2人に公私共にお世話になった。

そのほか、Bell研の光システムのリーダーDr. Tinge Li、Bellcoreの光部品規格のリーダーDr. Ching Lon Lin、光測定の権威Dr. Peter Kaiser等には色々な光知識を解説していただいた。別件でSan Joseに古河電工の研究部門が進出するので現地調査に行った。そこで「Apple」の広告旗を始めてみた。OSAの初期の集まりがNYのホテルで開催され、メンバーに登録、古河の接続工具を初出展した。1986年5月、「米国に光ケーブル製造会社」を設立するので転籍辞令を受け取った。

その8:Georgia州に光ファイバー製造会社設立が決定へ