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その8:Georgia州に光ファイバー製造会社設立が決定
前回、1980年代の日本の産業発展と共に日米貿易摩擦が増幅し始めたことに触れた。それを回避する為に、国内企業の多くが一斉に米国内に工場進出を始め、トヨタがテネシー州に工場建設を決めたニュースが新聞をにぎわせていた。古河電工の米国での光ケーブル会社設立は同じ流れで、会社の名前は「Fitel Corporation」と決められた。1986年に技術提携をしていた電力ケーブル製造会社South Wire社の支援で、Georgia州、Carrolton市郊外にある元縫製工場の建物を購入した。隣にCBS-Sonyの大工場2棟が建っていた。本社から山本社長以下関係者5名が着任、さらにSouth Wire社からベテラン技術者、秘書等4,5名が加わり体制が整えられた。
Carrolton市は古き南部の絵にかいた様な街並みを残していた。市の中央広場は昔奴隷市場が開かれた所であったと知らされた。しかし、Georgia州の州都Atlanta市の飛行場まで、車で約2時間かかり、アクセスが悪かった。そのため、営業オフィスは飛行場の南方向約70kmに位置する開発都市Peachtree Cityに置かれた。Atlanta飛行場関係者の為に開発されたニュータウンで、ゴルフ場、湖、ショッピング街が程よく配置されおり、樹木が多く、リゾートタウンと思われるような魅力的な街であった。この周囲には既にTDK、ヤマハ、横河電機、パナソニック等の工場が進出をしていた。現地で働く日本人家族の殆どが生活していた。当初私は営業部門担当でCoring社から採用した営業員4名と共にこの町のオフィスに着任した。家族はPeachtree Cityに住むことを喜んだ。ちなみに、私の娘と息子は隣の町Newnan市の病院で生まれた。ここでは白人と黒人しかいない町で黄色人種の赤子は珍しかったのか注目された。
その年の11月にフロリダのDisney Worldに併設した展示会場で光通信関連の展示会が開催された。まずは会社名をPRをとの思いで支援に来ていた長谷川君と2人で参加した。この時、二つの出来事があった。その1、我々の最小展示会場ブースに日本人紳士が立ち寄り、名刺を交換させていただいた。住友電工、倉内憲孝氏(1991~1999年代表取締役社長)であった。当時住友電工はNorth Carolina州のTriangle Researchに光ファイバー製造工場を建設したが、Corningの特許により、操業停止に追い込まれた。結果Lucent社に総額$1.00で工場すべてを譲った。この撤退の指揮を執ったのがこの人物、倉内氏であった。その2、我々のブースの前に巨大なLucent社の展示ブースあった。人通りが少ない時間、説明員の小柄な白人女性に話しかけると、North Carolina州地域営業員Ms Tracy Hartであった。ものは試しと我々は工場準備中で、光ケーブルを製造するための練習用ファイバーが欲しい、Lucent社のNorcross工場で出る「スクラップファイバー」を譲ってほしいと言った。彼女は「何とかなる」と言ってくれた。この一言で工場のケーブル試作が始まり、Lucent社から商用ファイバーが入手できる縁となった。
後日Fitel Corp.はLucent社の光ファイバー外販の最大の顧客になった。その間Tracyは我々の為に多くの便宜をはかり、Lucent社の部長職にまで昇進した。紆余曲折はあったが、世界最大のLucent社の持つ「Norcrossの光ファイバー工場」と「Fitel Corp.」は現在の古河電工の米国関連子会社「OFS」となった。何とか新会社の形は整えられたが、受注、製造、販売等のビジネスを展開出来る迄にはかなりの時間と努力を要することになる。
その9:工場を建設し、ビジネスを開始する迄には多くの試練ありへ