その9:工場を建設し、ビジネスを開始する迄には多くの試練あり

Fitel Corporationは設立されたもののビジネスは始まらなかった。会社、工場を立ち上げたからと言って注文が舞い込むほど生易しい業界ではなかった。社内に不協和音がではじめた。同時期、同様な状況であった米国法人Ericsson Cable社との合弁の話があり、吸収合併した。その社からベテラン営業員と技術者数名が我々に加わった。

一方、Corning社から加わった営業リーダーJim ColeとPat Shustarが辞め、Ericsson Cable社からの営業リーダーに代わった。Peachtree Cityのオフィスも閉め、Carrolton市に集約された。さらに、会社設立に苦労した山本社長に代わり、情報通信企画部長であった荻原社長が送り込まれた。私は営業とケーブル製造以外の接続工具、コネクタ関連製品の製造を兼任で任された。

古河電工の支援でケーブルの端末加工、パッチコード製造が行える設備を整えた。コネクタ付け設備として本社から納入されたのはFCコネクタ用であった。北米ではBiconicコネクタが主流であり、また、光ケーブル構造はLoose Tube型で、日本ではNTT仕様のTight Buffer構造であった。支援する日本側と光通信の仕様の認識もずれていた。

カナダの測定器会社EXFO社から初めてのパッチコードの注文を受けた。片端Biconic、片端FCのハイブリッド型パッチコードであった。電話でなぜか、我々はフランス語圏のQuebec州の会社だと言った。この時点から少量であるがパッチコードの注文が入り始めた。日系二世のトロント大学教授から相談が持ち込まれた。カルガリーオリンピック用に納入された米国製の光ケーブルが寒さで減衰量が増加し使えない、耐寒用ケーブルが作れないかであった。結果、古河電工が製造、一旦米国法人のFitel Corp.に納入し、現場に納入した。

1987年末にボブスレーの競技場に沿ってケーブルを敷設、寒い中、我々スタッフが接続を行った。オリンピックは翌年2月に開催され無事中継された。同じ頃、富士通がダラス工場を建設、一部操業を始めていた。相談があるからと連絡あり訪問した。長距離回線運用会社MCI向けに700Mb/s級の伝送システムを納入することになった。

FCコネクタを端末に取り付けるのだが、手持ち在庫FCピッグテイルの端面が平面研磨でこのままでは反射戻り光が多く使えない。PC研磨に替えられないかとの相談であった。持ち帰りスタッフと相談、数日後スタッフが業界紙の広告を示した。それにはコネクタハウジングを装着した状態でPC研磨可能と明記されていた。

千葉県松戸市にある「精工技研」という会社であった。電話をすると営業部長小梁川氏が出た。彼から来月から海外販売をカナダの「JDS Optics社」に任せるので、今月中に注文があれば直接販売できると言われた。1988年8月に日本に出張、製品確認、発注を約束してきた。この一件は後に私が精工技研にお世話になるきっかけであった。

米国内の主要顧客はBaby Bellと呼ばれるAT&Tの地域通信事業を分割した7社である。それらにケーブルを納入するにはBellcore社の審査を受け、承認を得る必要があった。営業が頑張り、その1社Southwestern Bell社がスポンサーに名乗り出た。それに同調し、更に2社加わった。審査は全ケーブル製造工程を丸一日費やして行われた。

審査中に大問題が発生した。製作中のケーブルが破断したのである。結果を諦めていた我々にBellcoreの審査員は「ケーブル破断の事故はあったがその後、適切な処理が行われ、合格である」と言った。初めて全社員が歓喜した瞬間であった。

その10:ヒューストンのOFC会議中に行われたJDS社への資本参加合意会議へ