その14:JDSの重要戦略部品WDMの実用化とトロント証券所へのIPO

JDSに着任して気が付いた。カナダで働くのと米国とでは雰囲気が全く違った。それは多種多彩な出身国の社員であった。会議では親の代からのカナダ人は2、3割程度、他はいわゆる移民であった。どこかの国と異なり「学歴」、「年功序列」、「ゴルフの腕前」等は全く無縁の世界であった。各人が考えを述べ、最も合理的と判定された意見が採用された。しいて言えば会議の責任者が合理的と思う見識を持つ必要であった。私は副社長であるが、外国からの移民と同レベルの社員扱いであった。

JDSが飛躍したのは世界に先駆けWDMを実用化し、システム会社に納入できたからである。’95年初夏、幹部約10名が日曜日に召集された。(注:J.Straus社長は敬虔なユダヤ教徒で金曜日の日没から土曜日の日没の間は「安息日」で絶対に働かない。)米国の某会社がWDMの試作システム入札を発表した。その時点ではJDSは4Chs、8ChsのWDMの作成のめどが立っていなかった。Bostonのライバル会社が完成したと発表していた。目標仕様のフィルター素子を必要とした。全世界から製作できる会社を探し出すことであった。

その日、出身国別に調査を割り振られた。私には日本のメーカーを、応用光電、サンテック等を打診した。数週間後、カリフォルニア州の「OCLI社」が可能性ありとの情報を得た。技術確認に関係者を派遣、すぐに技術協力協定を結んだ。この年の暮れBostonの会社は製品を納められなかった。JDSが逆転受注、JDSが飛躍の起点となる戦いに勝利した。

’96年3月26日にJDSの上場が決まった。正直言うと自分自身が上場(:Initial Public Offering)という言葉は知っているものの具体的に何も分からず、慌てて勉強した。上場を指導する証券会社&専門弁護士の選定、株を引き受ける投資家の発掘等の作業は多かった。まずは「目論見書」作成であった。前年11月にオタワ中心部のビルの1室で、通常の仕事後真夜中迄、連夜議論と作業は続いた。J.Straus社長とJ.Cobb総務部長、G. Duck&P.Jones両創業者と私が実務作業者であった。

オタワの冬はマイナス20、30度まで冷え込んだ。その年の12月、古河電工の幹部に上場支援を得る為に帰国した。しかしカナダの関連会社の上場に関心を持つ幹部は限られ、多くは他人事であった。唯一、経理部の奥田部長が理解を示し、1月1日に部下の猪野君をオタワに派遣することを確約してくれた。猪野君は私がNY駐在時に米企業留学の為NYで語学研修を受けていた優秀な社員であった。また、奥田部長のお兄さんは当時トヨタの社長であった。

上場直前になりJ.Straus社長からこれで良いかと勤務1年以上の従業員約280人に対するストックオプションのリストを見せられた。時間が無く“Yes”としか答えようがなかった。リストの最上位に私の名前が書かれ、通常ストックオプション1万2千株、ペニーオプション8千株と明記されていた。もしもであるが2000年迄私がJDSに継続して働き、その権利をタイミング良く行使していたら約120億円相当を得たことになる。最も私は翌年帰国し、この権利は消滅した。

予定期日にトロント証券取引所に上場した。創業者3名と私は取引所関係全員から拍手のスタンデングオーベーションで迎えられ、場内を1周した。電光掲示板にJDS$13.xxの数字が浮かび上がっていた。創業者達は涙を浮かべていた。かくして私のJDSでの仕事の一区切りは着いたが、次の想定外の難問が待ち構えていた。

その15:JDS上場後の躍進と古河電工が派遣した会長人材のミスマッチへ