その15:JDS上場後の躍進と古河電工が派遣した会長人材のミスマッチ

両社のトップで古河電工がJDSに会長を派遣することになった。私の数年先輩のS.M氏であり、最適な人として、知らされた。上場後約1ヶ月後にJ.Straus社長が見たことの無い剣幕でやってきて、「JDSはS.M氏の要求する個室は用意する、しかし他の条件、家、車、給与及び交通費等を含む一切の費用をJDSは負担しない。古河電工が持てと伝えろ。」と言った。

S.M氏はヨルダンのプロジェクト工事所長、タイ バンコック所長を歴任していた。どちらも「家」「運転手付き車」「メイド付き」等々は全額会社負担であった。この感覚でS.M氏がJ.Straus社長と話をしたことは察しがついた。しかし、JDSは北米のベンチャー企業、倹約に倹約を重ねて会社を築いて来た。社長の乗る車もポンコツ同然の自分の車であった。さらには、S.M氏は光通信に関しては素人の知識レベルであった。

バンコックの夜とゴルフの接待に明け暮れする仕事とは違っていた。似たような話を聞いていた。某XX重機という大手企業がオタワのエキシマレーザーの会社を買収した。日本から役員が送り込まれたが、会社には出社せず毎日ゴルフ場で時間をつぶしているとの日本人の間で知れ渡っていた。私が日本的優秀なサラリーマンならS.M氏を支援し、JDS内の立ち位置を築くべきであった。しかし、私はそうはしなかった。

事業責任者である池田副社長に直訴状を送り、このミスマッチの人選を撤回するように訴えた。返答は「古河電工は一部上場企業である。社として発令をした人事をいかなる理由であれ、すぐさま撤回する訳にはいかない、1年間は待ってくれと」と書いてあった。私がこの強気な直訴状を送った理由は帰国後の転職を決めており、古河電工の誰にも忖度する理由なく、ありのままを幹部達に知らせようと思ったからであった。

毎土曜日に開催される日本人学校の校長を引き受けた。理由はこの学校はオタワ大使館員の子弟が殆どであった。民間人でないと日本政府への補助金申請ができないからが理由であった。故高円宮夫妻がオタワを訪問、日本庭園を地元博物館に寄贈した。その返礼にカナダ外務省が返礼晩さん会を開催、我々夫婦も日本人学校長と言う立場でレッドカーペットを歩いた。

中国の精華大学卒業後、東大の大越研で学び古河電工に入社した程さんがJDSにいる私に預けられた。彼は古河電工の研究所でEDFAの開発を行なった。官費留学なので中国に戻らなければならなかった。カナダ国籍を取れば帰国しないで済む。1年後、カナダ国籍を得た。古河電工が私経由で彼に給与を払っていた。彼はJDSの光サーキュレータを開発した。JDSは彼をすぐさま正社員として採用した。

私は上場後、地元新聞に大きく取り上げられた、JDS内ではアジア人Topとして扱われた。カナダ商務省の役人が日本カナダ合弁会社の成功の秘訣を聞きに来た。日本大使館大使は数少ない日系企業人として会食に招いたりしてくれた。短い間ではあったがオタワの生活は寒いことを除けば楽しかった。

’96年11月、精工技研に転職を確認した。同時に古河電工の組織上の上司に転職の意を伝えた。そして、J.Straus社長とZ.Cobb総務部長に翌年4月に帰国の意思を切り出した時、二人から「帰国するな、古河電工を辞め、JDSで一緒に働こう、日本に帰るならJDS-Japanを作るからその社長をやれ」と迄言われ留意された。JDSの仲間と認められ本当にうれしかった。

その年の暮れに、精工技研を訪問、高橋社長から2000年7月迄の上場スケジュールを聞き、強く協力を請われた。古河電工では私の後継者の人選も始まった。自己都合での退職なので退職金は少ないと思っていたが、特別早期退職制度に加えられ、退職後10年間特別企業年金が受け取れることになった。

’97年4月、オタワの最高級フランス料理店にて幹部約50名が集まり我々夫婦へお別れ会が開かれた。着任当時JDSの従業員は約240人、帰国時には1,000人を越え、建屋も巨大ビル3棟になっていた。

その16:1997年帰国、精工技研への転職、2000年同社上場、2003年退任へ